本日の「ほぼ日」のタイトル文章で、
モノポリーについての興味深い話題がありました
ゲームのなかでの交渉について、
たとえそれを断る理由をうまく云えなくても、
断ってしまってかまわないのではないかという要旨でした
それでなければ、「言論的な力ずく」に負けてしまう、と
とても漠然とした文章なので、真意を正確に読みとることは難しいのですが、
わたしには、整然とした論理にとらわれない、
直感的、感情的なものであっても、交渉の判断要因にして構わない、
そういう意味に思えました
ボードゲームを遊んでいると、たまに窮屈に感じることがあります
たとえばそれは、トップを走っているプレイヤーを牽制するための一手を、
有言無言のうちに求められていることに対してであったり、
有効な最善手を選択しなかったことにたいする、
他プレイヤーの困惑した態度を垣間見たときだったりします
もちろん、難しい問題が孕んでいることは承知しています
ともすれば、ゲーム全体を破壊することになりかねませんからね
でも、予定調和を強いられるゲームほどつまらないものはありません
また、たとえゲームでも、いえ、人生そのものであっても、
そのすべてにたいして合理的な基準でのみ行動するのは、
やはり、とても不自然だと思ってしまうのです
たとえばトップを走っているプレーヤーに対して、
「勝たせてもいいや」と思って追撃の手をゆるめてしまうのは、
明らかなマナー違反でしょうか
でも、もしかすると2番手のプレイヤーは嫌なやつで、
わたしの妨害ばかりしていたかもしれません
そうしたら、トップを放置して、
2番手のプレイヤーを攻撃するのが人情だと思うのですけれど
こんな考えは、極端であることは承知しています
しかしわたしの考える、ゲームの強いプレイヤーとは、
最善手を連発する頭脳明晰なプレイヤーなどではありません
彼らは勝利に固執するあまり、時に冷酷であり、
論理的という印籠を掲げ過ぎて、わたしを苛立たせるのです
むしろ、本当に強いプレイヤーは、
その存在や雰囲気で勝利を「肯定させて」しまうプレイヤーだと考えています
彼らは強豪でありつつも、他のプレイヤーに怨恨を抱かせない人柄と、
相手を不快にさせてしまう要素を慎重に避ける狡猾さを併せもっているものです