この週間を覆っていた暗雲が遅まきながら去ってゆきました
しかしそんな天気とは裏腹に、
気の重くなる仕事が入り陰鬱な精神状態で休みに入ります
どうやら来週から羅刹の域に足を踏みこむことになりそうな予感
せめてこの週末で少しでも気分転換を図りたいところ
Table Game In The Worldさんで4回にわたり、
ゲームの点数評価についての翻訳記事が掲載されました
書き手はトム・フェルバー氏という評論家で、
ゲームの採点に批判的な立場をとっています
コラムを読んでまず思ったことは、
フェルバー氏が点数評価の是非よりも、
安易なゲームの採点行為は、ゲームのまともな批評にたいする「逃避」と考え、
彼なりの警鐘を鳴らしているのではないかということでした
もちろんそれは、同氏の批評家としての矜持の裏返しでもあるのでしょうが‥
フェルバー氏はオーケストラ、サッカー、映画と次々に喩えを持ちだして、
評者の主観や精神状態による不安定さを指摘します
遂にはゲーム評論において客観を装うことは詐欺師的ですらあると
しかし彼の主張するほどゲームの客観的な評論は困難なものでしょうか
たとえばフェルバー氏がこきおろした内容を抜粋してみましょう
「デザイナーがルールブックの中でルールを説明せず、
自分の経歴なんか書いているんです(略)
また2つの色の見分けが付かないゲームがあって(略)」
これらの要因についてはそれこそ客観的な検証は十分可能なはずです
この点は論理的に矛盾を来していると思います
しかしゲームの批評をほかの文芸やホビーより困難にさせている要因は、
まちがいなくあるとわたしは考えています
評価者の主観(性別、年齢、指向、精神状態)については、
評論をおこなう以上、必ずついてまわるものでこれは他と大差ないでしょう
(むしろ評論家のセンスがもっとも発揮される要素でもあるわけです)
ゲームが特別なのは、一緒に卓を囲むプレイヤーの存在にあると考えます
彼らは評価者の主観にたいして、とても大きな影響要因となりえます
つまりゲーム批評の難しさは、
他ジャンルの評論と同様に主観に依拠することに変わりはないけれど、
他プレイヤーの及ぼす影響がその主観のブレを、
著しく増幅させる可能性があるということです
その結果、見当外れなゲーム評価を下してしまう危険性を、
評価をする人間は、つねに認識していなければならないと思うのです
もちろん回数を重ねるごとにブレは矯正されていくでしょうが、
現在のボードゲームを評価するにあたり、
果たしてわたしたちはどれほど遊んでいるというのでしょう‥